工学における表現力と芸術における表現力

 とりあえずまともな文章を書けるようになりたいのと、何かアウトプットを出すようにしないと本当に虚無を過ごすので少し頑張ることにした。今回は常体で書く。

工学における表現力

 工学における表現力、主にマークアップ言語で言えばできることの広さを指す。markdownテーブル記法ができなかったり表現力が乏しいが、それに比べるとhtmlは表現力が高い。pdfはもっと高い。しかし、表現力とは裏腹に可読性であったり使い勝手が損なわれるため、トレードオフの関係であるといえる。

芸術における表現力

 その一方で芸術における表現力はあればあるほど良い。詩の文化が昔に比べて衰退したのは詩が衰えたのではなく歌にした方が、多くの場合表現力が豊かだからである。また、明治大正期にはリアリティが求められていた小説が、より虚構性物語性を評価するようになったのは、リアリティに関する表現力が映像作品に勝てなくなったからである。もちろん工学と同様に芸術においても製作コストとのトレードオフはある。単行本一冊の小説は一人で書けるかもしれないが、それと同等の内容の映画作品には多くの専門家が携わる。

 しかし、芸術はスケールする。スケールによって利益を生み出す工学を嘲笑うかのように。

 たとえ一つの作品に対していくらコストがかかろうが、その分多くのユーザーに消費させればよい。そうなれば、ユーザーの目からすると表現力の豊かな媒体(映画、ドラマ、ゲーム)が好まれるのは当然である。そして稼ぐ媒体としても優秀なのは表現力の豊かなものである。

 ただ、これは一つの問題もはらむ。クリエイティビティは試行錯誤によって高められるが、映画やドラマやゲームはそれが難しくなっている。ノウハウの共有や便利なツールが登場することで製作コストを下げる動きがあるが、それ以上に表現技術の進歩が個人レベルので試行錯誤を不可能にしている。果たして映画製作において雨を降らすだけの人間が、その過程をこなすことで芸術としての映画を理解することができるのであろうか。大型ゲームのモンスターのモーションだけ作る人間が、ゲームという芸術を理解できるようになるのだろうか。表現力の豊かさが、芸術をコモディティでないものにしているようにも見える。