「理解の理解」を楽しむ時間

 手紙には時候の挨拶を書くものらしいが、万年季節が「コロナ」な昨今では、それらしい時候の挨拶も難しくなったように思う。夕食時の会話もコロナ関連以外の話をすることが難しくなってきた。

ここから先は理解ができるという感覚までやって飽きる

 私は飽き性である。精進など全くできる人間ではない。努力は嫌いだし、努力が向いているわけでもない。しかし、知的好奇心は人より旺盛である。その知的好奇心は知らないことを知ることから、理解できないものを理解できる段階までもっていくことに楽しみを覚えるようになった。

 この説明ではわかりにくいかもしれない。物事を理解するには絡まったひもを解く段階と、解いたひもを編む段階がある。未知の学問や概念に遭遇したとき、理解できないながらもいろいろな試行錯誤をする。そうした中で少しずつ共通点をみつけ、整理し、アナロジーに落とし込むことで、ひもがほどけていく。この時はまだその物事を理解したとは言えない。しかし、その先は飛躍的に物事を理解していく。私はいろんなものに挑戦し、その段階に到達したら飽きてやめてしまう。コレが結果的に何者にもなれない理由ではあるが、それはそれで充実感がある。もちろん私は何も理解していない。しかし、必要になれば十分なレベルにすぐに持っていける自負がある。ひもはすでに解いてあるのだから。